60期卒業公演『三人姉妹』演出家・松本祐子インタビュー

いつも研修科を応援頂き有難うございます。今回は研修科60期卒業公演「三人姉妹」演出を務める松本祐子さんのインタビューをお送りします。


それではどうぞ。

(演出:松本祐子


ーー『三人姉妹』を選んだ理由について。

色々あるんですが……チェーホフの登場人物って、どのキャラクターも勧善懲悪じゃなくて、良かれと思ってそれぞれの正義だったり幸せを追究して、その人なりに生きている。だけど色んなことが上手くいかなくてもがいてる。人間のとっても善良なところとドロっと醜いところがどのキャラクターの中にも内在してて、それが色んな形で表出出来るように書かれていて、それが人間くさくて面白いなと思っているんです。

ちょっとウジウジしすぎだよという気もするんですけど、だけど決して単色では済まない。片側の見方からだけだと描ききれない。色んな複合的な目でキャラクターを見つめて、その人の言動を理解していくという作業が演じる側にも必要になるので、発掘の甲斐がある役ばかりで、その発掘作業を俳優を目指している皆さんに、是非ともやっていただきたいなと思ったのが一番大きな理由だったように思います。

それから全体的なバランスです。つまり「研究所の2年間でどういうことを経験させて、世に送り出すのか」ということをやはり考えなければならないと思っています。様々な性格を持った作品と芝居の作り方に、なるべく色んな形で触れて経験を積んでいただきたい。そのためになるべく偏りがないカリキュラムにした方がいいと思ってます。今年の発表会は日本の作家のものが続いたのと、ねちっこく細かく登場人物の性格とか言動とかを発掘するタイプの戯曲ではなくて、違うことに眼目が置かれている作品が多かったような気がするので、最後にあまりやってこなかったことを経験して欲しいと思ったんです。登場人物の言動をどう理解して、自分の表現にしていくのか…、登場人物の行動を自分の思考回路とか身体に取り込んでって、それを表現出来るようになるという作業は、演じる上での一番基本的な作業だと思っています。そしてそれは、この先俳優を続ければ必ず必要になってくるので、是非とも学んで欲しい、チャレンジしていただきたいと思った…だから『三人姉妹』を選んだんです。


ーー翻訳劇を演出する際に意識していることについて。

先ず、どういう翻訳で、どういう日本語でいくのかが、翻訳劇をする時にモーレツに大事なことだと思うんですよね。翻訳家という仕事はすごく大変だろうなと思うんです。舞台の翻訳の場合は耳で聞いて100%内容がおもしろく伝わるように翻訳しなければならないので、直訳だけじゃダメですよね。なので、先ずどういう翻訳なのかということがものすごく大事だなと思うんですね。

日本人って「私の」とか「あなたの」とか「私たちの」ってあんまつけないでしょ、単数か複数かもあまり気にしないですよね。でも英語やロシア語の作品ってそういうのを、いちいち言葉の中に盛り込んでるじゃないですか。「こんなに僕のあたしの言わへんわ!」と思うことが多いじゃないですか。どの翻訳だって翻訳家の方が凄くご苦労なさって、日本人のお客様が演劇作品として見たときに純然に意味がわかるように翻訳なさっていると思うんですけど、実際に稽古場で人間が動いたら「私の」「僕の」「あなたの」はいらないし、複数単数もいらない。もっといらないことも。だから今回は安達さんの翻訳をもとにしていますが、ところどころそういう日本人同士が実際に動いたらカットした方が会話として自然になる細かい言葉はカットさせていただいたり少し変えさせていただいています。とにかく、翻訳劇は、先ずはどういう翻訳になっているかということを丁寧に気にするというのが、とっても大事なことだと思います。

次にリサーチ。これは日本の芝居をやるにしてもそうですが、演じるためには具体的にひとつひとつのことを理解することがとても必要なんです。どういう世界でどういう哲学の元に書かれているんだろうと理解する努力をすることが、面倒くさいけど面白い。だって登場人物たちは絶対メンタリティが違う。いや、そりゃまあ根本は一緒なんだと思う、人間なんだから。痛い思いをすれば嫌だし、腹が減ったら悲しいしみたいな。

だけど、例えば神様に対する考え方。「山行ったら神様いるかも」とか言われたら「ふーんそうかもね」とか「山神様いるよね」とかあんまり違和感なく受け入れられるアニミズム信仰が日本にはあったりするじゃないですか。でも、日本のそれとロシアのそれが一緒なのかどうなのかは調べないと分かんない。キリスト教的感覚はクリスチャンの人は持ってるだろうけど、大多数の日本人は宗教に対してかなりどうでもいいっていうか、都合良く信じて都合良く忘れるって事ができるじゃないですか。でも、向こうの作品読んでると、もうちょっと宗教観が強いなって感じることが多いので、それに対して、じゃあこの登場人物はどれくらいそういう事を考えているのかなとか。今回だと、ソリョーヌイがやたら文学作品を引用しますけど、それはうちらにとっての太宰なのか寺山修司なのか。「うちらで言うところのこの人は誰?」と置き換えて想像する。例えば自分らの友達が、誰の詩を急に朗々と言い出したら皆んな「お?」って思うのかとか、今だったらそれはラップなのかとか。今の私達と、そのリサーチした事実とをどうコネクトすればいいのか。そのコネクトの原材料は俳優や演出家やスタッフの想像力なのですが、その想像力を発揮する為にも調べなきゃならないので、そのリサーチの面倒臭さは翻訳劇をやる時は日本の作品をやるとき以上にあると思うんです。

もちろん、日本の作品でも例えば横山拓也さん作の『ジャンガリアン』を作った時はやっぱり日本にいるモンゴルの人とかにリサーチして、色々お話を聞きました。横山さんとは別の所で以前、作品を作ってるんですけど、その時は介護施設が舞台だったので介護施設に二人で出掛けて行ってずっと職員の人にインタビューして一日中施設に居させてもらって、介護される側の人達とも遊んだり話したりしました。お風呂の介助機とか、立ち上がる介助機とか使わせてもらったりもしましたね。

だから翻訳劇に限らずなんですけど、とにかくリサーチをするのが面倒臭くて楽しい。特に翻訳劇の場合は知らない事が多いし地理的にも遠いですし、今回の場合は時間的にも遠いので結構難しい。だけど、その面倒くささも含めて研究生にやって欲しかったんですよね。この先、俳優として独り立ちした時にどういうカンパニーにぶっ込まれるか分からないじゃないですか。時代劇とか、全く知らない世界の作品に放り込まれた時、もう誰も助けてくれない。だから「こういうことを調べた方が良いんだな」とか、「これを知ってるとホッとするな」とか、リサーチの方法を知っておいた方が良いなって思います。

リサーチをした上で、過去の作品を現代の日本のお客さんに対して、何をお伝えするのか、どう楽しんでいただきたいのか…それがやっぱり一番大事だと思っています。どう現代の観客に作品を手渡すのか、それを考えるのが面白いし、それこそが演出の仕事だと思います。

観客の日々の生活と作品の中で行われてる営みのどこをどう繋げば「わあ、一緒だ」とか、「こんなことしてちゃダメじゃん俺、明日も元気に生きていこう」とか、「ボヤボヤしてたらこの国の政治はやばいんじゃないか」とか、色んな事をそれぞれ感じてもらえるのか…そのための方法論を考えなきゃいけない。多分翻訳劇の方が観にくるお客さんも遠いわ~って思って観にきてると思うんです。「だって海外の話でしょ」「だってチェーホフでしょ」みたいな。そんな人達にも我が事として感じてもらえるように、手渡しする術を探しています。


ーー文学座を選んだきっかけ。

先ずお芝居やりたいと思ったのは幼稚園の頃なんですね。信じてもらえない自信がありまくるんですけど、本当に大人しい子だったんです。私、3月の終わりの方の生まれで、成育が遅いから幼稚園では、まわりに付いていけなくて、なんかこう何も出来なくって、オマケにちょっと家庭の事情で孤独を感じなきゃいけない時期だったので、幼稚園から家に帰るとおばあちゃんと2人でテレビばっかり観てたんですね、外で遊ぶ事をほとんどしない子供で。で、大阪だったので、週に1回松竹新喜劇のテレビ中継があって、藤山寛美さんっていう藤山直美さんのお父さん、稀代の喜劇俳優って言われた方が毎週テレビに出てらしたんです。その人はお馬鹿な丁稚の役がお得意で、人をめっちゃ笑かせるんですけど、最後にお涙頂戴というか叙情的なストーリーになってって、お客さん泣いてたりするんですよ。で、子供ながらに凄いなぁって感心してしまって。あの人みたいになりたいっていうのがお芝居に興味を持った最初でした。あまりにも自分が目立たなくって、暗くって何にも出来ないから、ああいう風になったら皆に注目されてお友達も多いだろうなとか思って…とにかく羨ましかったですね。

でも子供の頃は演出なんて仕事があるのは知らないじゃないですか、だから高校生くらいまでは俳優になりたいと思っていました。大学も演劇を学んで、ところが俳優としての才能がねえなぁって分かって。学生時代に演出も2回やったんですけど中々大変で、これちょっとどうしようって思って、就職活動もしました。でも私ずっと小さい頃からお芝居やりたいって言って親にもわがまま言って東京にまで出してもらったのにここで辞めるってなんなんだろうって思って。でも俳優はもう無理だなって思ってるし。

それで大学卒業して、とある劇団の制作部に入ったんですよ。でもね、面白くなくて…。制作って現場の稽古が観られないから戯曲を読んで面白いと思っても私のイメージ通りに全然なってなかったりするんですよ。そうすると「あれ?」って思って。「うわうわ面白くないぞぉ~」とか思っちゃって。ただ、制作部に入って良かったって思うのは、自分の好きな偏った芝居しか観てなかったのが、制作部特有の横の繋がりのおかげで、招待で色んな芝居が観れたことですね。あと当時、京都労演(京都勤労者演劇協会)の事務局をしている遠藤寿美子さんという方がいらしたんですが、彼女は京都の無門館という小劇場でプロデュースもしていたすごい方だったんです。その方とお話した時に「あなたこれ観た?これ観た?これ観た?」って言われて「いや観てないです。観てないです。観てないです。」って言ったら「あんた何も勉強して無いね」って言われて、「あんたそれで制作やってんのおかしいでしょ」って怒られて、「芝居をもっと観なさい!」って言われて、「そっか」ってなって、その年はすっごいたくさん芝居を観たんですよ。で、いっぱい観て、「あーそっか、面白い物を作る為には自分で責任を取った方がいい」っていう風に思ったので、演出家になりたいと思ったんです。今でも遠藤さんが色々芝居を観ろって怒ってくれたことはすごくありがたかったなと思うんです。だってたまたま出会った何も分かってなさそうな若い女子に損得関係なく、演劇愛をド直球で植え付けてくれたんですよ、ありがたいですよね。

そして色々観ているうちに、鵜山さんの演出作品に出会って、「この人は演出家として才能がある!」と思って、鵜山さんってどこの人だろうって調べて見たら、文学座ってとこの人だって分かって、文学座の演出部募集してるから受けてみようと思ったの。でもその時24歳だったので悩みもしました、「この年で研究生って、またえらい金かかんじゃんこれ。こんなに払って、いい年こいて、こういうところに入るのはどうなんだろう」って。でも「劇団を自分でゼロから作れるお前?」って言われると、そりゃ無理だなって思ったし。

私が学生の頃って第三次演劇ブームで、作・演が一緒って言うのがメインだったんですね。野田秀樹さんとか川村毅さんとか、鴻上さんとかの人気がすごかったころなんです。私、作・演やったことあるんですけど、戯曲を書く才能はないなぁってつくづく実感してしまって、作・演は絶対無理だって思ったんですね。だったら演出ちゃんと学ぶしかないと思って。それにその第三次演劇ブームがその頃、ひと段落したように感じたんです。一人の才能が作劇のすべてを背負っていると、作風が固定化しやすいですよね。「あ、前回と似てるなぁ」とか、「もう新鮮な驚きはないな」とか感じちゃってた。だから元々ある戯曲をどうやって解読して演出するかということに興味が出てきてた時期だったと思うんです。なので文学座を選んだんですかね。


ーー文学座の特色について。

戯曲を大事にしようとする劇団ではあるなというふうには思いますね。良くも悪くも。戯曲を、いい意味で誤読して、解体して、構成し直して、新しいものを作るみたいなことはあまりやらない劇団じゃないですか。それよりは戯曲そのものの持っている意味合いとか、内容を発掘して、ある種生活感に根ざした感覚で、客に提供しようとする劇団ではあろうなというふうに思う。あと皆んなが皆んな同じような意見を持っているわけではなくて、割と個々の演劇に対する信念だったりとか、思い込みであるとか、やりくちを、阻害しないというか、いい意味で放ったらかしで、いい意味で取り込んで、どんなものも栄養素として吸収していく、懐の深い劇団ではあるなと思います。けど、絶対これができなきゃダメみたいなことを教える劇団じゃないではないですね。例えばミュージカル系のところだったら、最低限ピルエットこんだけ回ってくれとか、最低限ある一定のレベルで歌えなきゃねとか、あると思うんです。でもウチってそういうのないじゃないですか。だから今も稽古を見ていて、その人の体の癖が出過ぎちゃってる人がいっぱい。このままプロとして「どこの現場に放り込んでも大丈夫です」とは言えないなぁと思う人がかなりいる。それは単純に技量というものもあるかもしれないけど、身体の癖とか言われてきてないんだな、直ってないなとすごく感じたりするんですよ、普通にまっすぐ立つことができてない人が何人かいるって言うか。舞台俳優とかをやる場合、体に対して、もう少し繊細でないといけないんではなかろうかと思っていて、そこをあまりうちは教えてないなというのは、反省しています。普通に真っ直ぐキレイに、変な情報を与えず動けることが出来た上で、今度この役はこういう動き方した方が良いんだというのがあると思うんですね。自分の重心のどこをどうしたらどういう体になるみたいなことを知っていれば、キャラクターが体で表せたりすると思うんです。

例えば育ちのいいドレスを着ることが日常だった女性が猫背だったらおかしいと思ってしまうじゃないですか。と同じように、毎日農村で稲刈ってた人が、背筋がピンッと伸びてたら、それもおかしいと感じてしまうだろうし。役によって身体性も含めて演じることができるくらい、ニュートラルな体を手に入れるって言うことが、俳優さんにとって大切なことなんじゃないかと最近、強く思っています。どうにでもなれる体を手にいれるという事は、文学座としてあまり得意なことでは無い気がすると思うので、この先やっていけたらいいなと思うんです。私が研究生の頃は渥美さんの授業とかなかったですから、本当に体の効かない俳優が多いなという感じていました。それを改善したくて渥美さんに授業をお願いしていますし、とにかく使える武器が多い方がいいじゃないですか、俳優さんって。

あと文学座の特色は、いい意味でミーハー。色んなものに興味を持っている人が多いから、劇団員の好奇心が、色んなところに向かっているというのが文学座のいい所なのかなと思います。だからそれをもっと世の中の人に知って欲しいなあって願っています。

私、非常勤講師で大学で教えているんですが、とある生徒に「先生は文学座なのに、なんでそんな色んな新しいところのことも知ってるんですか?」って言われて、すごいショックだったんです。文学座は古い劇団ってイメージで、新しいことを何もしてないように思われてしまってるんだってことですよね。実際は真逆で色んな新しいことにチャレンジしている劇団だと思うんです、原田ゆうさんの戯曲をやったりとか(12月アトリエ公演『文・分・異聞』)。だからそういう意味で、ミーハーであるってのはすごく良いことだと私は思ってるんです。好奇心旺盛な劇団であり続けたいっていうふうにすごく思います。そして、そのことをもっと世の中にアピールしていかねばならないと、責任を感じています。


――60期生の印象について。

ここのところおとなしい人が続いてるなって感じがしていて。良く言えば非常に協調性があるんだろうし、悪く言えば大人しすぎるっていうふうに思うかな…。まあでも大変だと思うんですよ、だって(文学座に)入った時からコロナでしょ?だから、ずっとマスクしながら稽古しなければいけない世代っていうのはすごく可哀そうだし、そこで普段だったら爆発できる時にちょっとブレーキをかけざるを得ないものがここ(口)に付いていて。で、思いっきり大声を出したりすると、たまに過呼吸になりそうになりません?なんか視界が白くなっちゃったりとか、わーって喋ったら、マスクの中がベトベトになってて、もうえらいことになってるとか。だから自分の限界を超えるような表現に対して、臆病にならざるを得ない時代に研究生をやってらっしゃるので、そういう意味ではおとなしくなってしまうのも仕方がないのかもっていう印象があるんですね。良い意味でもっと図々しくなっていいよって思うし、わがままになってもいいのにって思うんですけど。

あの、よく小林勝也さんが自立しろって言いますよね。みんなでつるんでどうこうとかじゃなくって、自立して「自分でこうしたい、ああしたい」があって存在する俳優になれってことをよくおっしゃっていると思うんですけど。それは演出家に「そうじゃねえんだよ!」って拒絶される場合もあるかもしれないんですけど。でも、「これはやりたい」とか「この役のここは絶対こうしたいんだ」みたいな変な勢いというか、こだわりというか、愛着というか、そういうものが強くて、時として相手役との良い意味での摩擦を生んだ方が芝居は面白くなるだろうと私は思ってるんです。

だから、譲り合わないでいただきたいって強く思ってます。わがままになるっていうのは、つまり欲望が強いってことで、「こうしたいんだもの」っていう自分の役とか自分の演技への愛が強いってこと。俳優って自己愛が強い人じゃないとやっていけない職業だとも思ってて、まあそればっかりじゃ困るんですけど(笑)。ナルシストだけの集まりでも困るんですけど、でもそういう側面を持っていないと、「もっとこうしたい」っていう向上心みたいなものにつながらないと思うので。

そこに関して(60期生は)持っていないとは言わないですけど、もっと出してきちゃってもいいんじゃないかな、品良くまとめなくていいんじゃないかなっていうふうには思いますね。

今日チャリンコ漕ぎながら、「今日インタビュー受けるんだよな。あたし研究所時代なにやったっけ」みたいなことを思い出していて。やっぱり濃厚に憶えているものは苦労したもの、摩擦があったものなんです。

勝也さん演出で、清水邦夫の『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』をやったんです。それが研修科上がって2本目の発表会だったんですけど、当時の勝也さんすごい怖くて…(笑)。「往年の宝塚女優が深夜の百貨店に集まる」みたいなお話で、この作品は勝也さんもう何度か研究所でやっているんですけど、その時が勝也さんにとっても初めてだったんです。だから勝也さんも手探り状態で、あと寺島しのぶちゃんとかも出てたりとかしたので、みんなすごいやりたいことがハッキリしている人達ばっかりで、結構な摩擦がいろいろ稽古場に渦巻いていたんです。徹夜して衣装を縫ってたりとかもしましたし…、そういうのを憶えていたりとか。

あとは、『ヘッダガブラー』っていうイプセンの作品をやったんです。今はもう亡くなられたんですけど、すっごい厳しい演出家さんで、ほんとにもう大変な作品だったので。それに主演女優の子たちが2人ともお互いをライバル視していて。片方の子は「あっちの子の方が稽古長くやってもらってる、悔しい…!」って私の前でわんわん泣き出したりして、もう「よしよしよし…」ってなだめに入ったりだとか、そういう色んな事があったりして。でも結果、面白い作品になってたと思います。

あと、(研修科の頃に)『かもめ』もやったんですけど、あたし演出がとにかく気に入らなくて(笑)。飲み屋に先生(演出)を呼び出して、「すいません、あそこのミザンスですけど、ここ、こうなってますけど、ここはこういう風に考えて、こうこうこう書かれているわけですから、こうした方が良いと思います。」って必死に直談判しに行って、絶対私の方が正しいと思ってたから(笑)。まあでも最終的に言うこと聞いてくれなかったので、怒りに震えながら横に座ってました。「そうじゃない、これは違うと思う!」って(笑)。

きっとすごい生意気な研究生だったと思うんです。だから自己主張することを怖れないでくださいと言いたいです。


ーー授業や演出を通して研究生に学んでほしいことについて。

さっきからもう言っちゃってる気がしますね。とにかく、自力で。

もちろん解釈とかいろいろ、出会う演出家とか、出会う共演者が、いろいろとサジェスチョンしてくれることはとても多いと思うし、それを拒絶するのではなく、取り込める開いた心っていうのもすごく大事だと思うんですけど。でもそこに関してはわりとうちの劇団の研究生の子たちって持ってる気がするんですよね。なんとなく人を選ぶときに、伸びしろのある子を選んでる気がするんです、私たちは。出来上がった子というよりは、伸びしろがあって、あとは相手の意見を取り込めるだろう子。だからあまりにも自我が強くて拒絶してしまうだろう子はあまり仲間に入っていただいていないような気がするんですね。ただそのぶん、おっとりしてるというか、のんびりしてるというか、という子が最近多い気がする。

受けてくれるのはいいけど、そうじゃなくて自分から発信しなきゃしょうがないでしょ、っていうことがあったりとかするので、自分の役とか演じてる作品って何なんだろうみたいなことを自分なりに、さっきも言いましたけど、掘って考えてこうしたいって思うまで構築していく能力がやっぱもっと必要だし、そこに関してしっかり戯曲とか作品世界に向き合うみたいな粘り強さというかしつこさというか、がもっと学んでほしいことだったりするんです。「単に素直に聞いてちゃダメなんだって!」っていま稽古場で結構言ってる気がするんです。つまり、あなたが素直にふーんって聞いてちゃダメで、役の立場でそれを聞いて、時には「え、何言ってんの?」って思ったら、「何言ってんの?」ってことを身体で示さないとお客さんには伝わらないわけじゃないですか。だから、そこまでできるまできちっと役を取り込む作業をもっと綿密にしていただければ。

それは私も自分にずっと言い聞かせてて、結局綿密さと大胆さ、両方がたぶん演劇を作る上では非常に必要じゃないですか。最終的には、相手に自分の感情とか意見をさらけ出してぶつけて、あとは野となれ山となれみたいな、ある種精神のバンジージャンプみたいなことをしなければならなくて、だけど、それをやるためにはすごく繊細な部分が必要だし、例えば相手の目の色が変わったりとか頷いたなあみたいなことを繊細にキャッチする敏感な精神も必要じゃないですか。だから敏感でありながら大胆であるっていうことがすごく演技の上で大事だと思うんですけど、それが出来るようになるための下準備をもっと個人で自立してやるっていうことがまず一点。

あとはさっき言った、身体に対してはまだまだうちの劇団はそんなに強いとは思わないので、ちょっと自分の身体って本当にどうなんだろうと、ちょっと見つめてちゃんとニュートラルな身体を手に入れるっていうこと。特に猫背がちの人は、相当気をつけないと直らないと思うんですよ。もう二十年以上、猫背で生きてきちゃってるわけですから。それが個性になるほど、逆に言えばめちゃくちゃ個性的なルックスだったらいいんですけど。

持って生まれたルックスみたいなものは絶対に変えられないじゃないですか。だけどそれをいろいろ活用する術みたいなことは学んでいくなり、ちょっと心の片隅に留めておいていただけると、たとえばこんにゃく体操をやったり、殺陣をやったり、ダンスをやったりするときのモチベーションが変わると思うんですよね。単に踊れりゃいいってことではなくて、身体を知るみたいなことがとても俳優さんは大事かなと思います。そのことを日本ってガッチガチに教えてない気がするんですよね。海外ってやたら論理から教えるんですよ。足の裏のこの点で人間は体重をほぼほぼ支えてて、とか。そういうことから教えたりするんですよ。で、肋骨がこうなってて、背中の骨がこうなってます、みたいなことを教えるんですよ、演劇の学校で。そこの感覚を理解させるみたいなワークショップがあったりとか。それが出来たからってすぐに芝居が上手くなるなるわけじゃないんだけど、役によって身体を変えなきゃいけないときもあるような気がして。いちばん分かりやすいのは『リチャード三世』のせむしの役とか。以前、観たアイルランドの芝居で二人で40役やるっていうスタンダップコメディーみたいな芝居があるんですが、衣装も何も変えない二人芝居なんだけど、しゃべりながら姿勢を変えると別の人に見えるんです。落語みたいに声色を変えるだけじゃなくて、身体全部を変えるんです。骨盤の向きをちょっと変えると、見事に別の人に変身するんです。ちょっと気取ってる人の体つきだったりとか、田舎のおっさんの体つきだったりをその人たちは二人で衣装も変えずに身ひとつで全部やってて、すごいおもしろかった。そんなことが出来るニュートラルな身体を手に入れてほしいって、いま稽古見ててすっごく思ってる(笑)。

ーーありがとうございました。

聞き手・文字起こし:研修科メディア係

写真:桜田祥太朗

記事編成:室園元

0コメント

  • 1000 / 1000