①いよいよ始まった辛亥革命
武昌で蜂起がおこった時、孫文は中国にはいませんでした。
彼は右腕の黄興(こうこう)に中国を任せ、ヨーロッパに向かいました。
「清朝は外国に資金援助を求めるはず!それを早く食い止めなければ!」と思ったのです。
独立を宣言した各省の代表は南京に集結。
そこへ、海外で革命の資金集めをして帰国した孫文が合流し、
1912年1月1日中華民国の成立を宣言します。
この中華民国において、
孫文は臨時大総統という地位につきました。
②北洋軍閥首領・袁世凱
中華民国成立といっても、まだ清朝が倒れたわけではありません。
清朝は中国最大の軍閥である北洋軍閥の首領であった
袁世凱を総理大臣にし、中華民国を倒そうとしました。
(ちなみに軍閥とは、軍人の私的なグループのことで、当時の中国では軍閥が各地で力を持っていました。日本の戦国武将をイメージしてください・・・)
そこで孫文は、袁世凱と裏で取引を結びます。
それは「臨時大総統の席を譲るので、清朝と手をきってほしい」というものでした。
袁世凱はこれに応じ、宣統帝を追放します。
1912年2月、ついに清は滅亡し、アジア初の共和国が誕生しました。
ですが、中華民国が成立しても、国内は軍閥が各地で力を持ちバラバラの状態でした…
そんな中、臨時大総統になった袁世凱は首都を北京に移し
「やっぱり中国には皇帝専制政治がお似合いだ!」と考え、
なんと帝政を復活させようとします。
袁世凱打倒を目論むも失敗した孫文は、
その後中華革命党という秘密結社を東京で結成。(これが後の国民党となります)
革命は袁世凱にのっとられてしまったのです!
結局袁世凱は帝政復活に失敗し、病死してしまいますが、
孫文の共和国建国の計画はもつれにもつれ、その後の国民党と共産党の争いに持ち越されることになります…。
③その後の中国は…?
第二次世界大戦後、国内では以前から続いていた国民党(孫文の後継・蒋介石を党首とする)と共産党(毛沢東を党首とする)の対立が本格化します。
大戦中は「内輪揉めはやめて、一緒に外国に立ち向かおう!」と国民党と共産党が協力した時もありました。
しかし、戦争が終わると外国という共通の敵がいなくなり、内戦が激化してしまったのです…
最終的に両者の争いは毛沢東率いる共産党の勝利に終わり、
1949年に中華人民共和国が成立、共産党の一党独裁体制の国家が生まれ、
国民党(中華民国)は台湾に逃れました。
※ややこしいですが、当時国連に加盟していたのは中華民国。日本が中華人民共和国を承認したのは、中華人民共和国が国連に加盟(=中華民国が追放)された後の、1972年です。
その後は、政治家の鄧小平によって毛沢東時代の改革からの開放が行われ、
現在の社会主義市場経済の基礎がつくられます。
社会主義市場経済とは、
共産主義の一党独裁はやめずに経済だけ自由にしましょうという仕組みです。
現在の中国は「21世紀世界の工場」といわれるまでの経済成長を遂げ、今やどこもかしこもMADE IN CHINAですね。
しかしこれと同時に、
共産主義に反発したとして、たくさんの民衆が犠牲になる事件も起こりました。
たとえば、その中の一つ・天安門事件は、ちょうど30年前の出来事です。
「じゃあ、自由に意見が言えないなんて昔のことでしょ?」
と思うかもしれませんが、決してそうではありません。
ノーベル平和賞を受賞した作家の劉暁波は、民主化運動を進めたために度々投獄されました。
そして2017年、彼は釈放されることなく、そのまま死去しました。
さらに、現国家主席の習近平氏はどうやら"思想を統制することが、団結した強い国家につながる"と考えているようです・・・
果たして今の中国は、かつて革命家たちが理想とした国に近づいているのでしょうか。
それとも・・・改めて、"革命"とはなんでしょうか。
今回の発表会『阿Q外傳』は、そのような鋭利な切り口をもった作品だと思います。
自分の言いたいことを言えない不自由を知らない私たち。
毎日試行錯誤しながら革命家の思想、そして言葉と向き合っています。
そんな私たちが作り出す革命の姿。ぜひ、舞台でご覧ください!!!
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
文、絵・北川莉那
<参考文献>
池上彰「そうだったのか!現代史」集英社
佐藤慎一編「近代中国の思索者たち」大修館書店
荒巻豊志「荒巻の新世界史の見取り図」東進ブックス
加藤嘉一「「習近平思想」で統制強まる中国、現場で見た3つの深刻実例」https://search.yahoo.co.jp/amp/s/diamond.jp/articles/amp/178351%3Fusqp%3Dmq331AQOKAGYAauz0ZiD37iWyQE%253D(2019.7.7アクセス)
0コメント