メスを筆に持ち替えた男・魯迅の日本留学時代 『阿Q外傳』コラム①




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こんにちは!!研修科1年、池亀瑠真です!
本作、『阿Q外傳』は魯迅の「阿Q正伝」を基にして描かれた作品です。

みなさんは『阿Q正伝』の作者、魯迅についてどのようなイメージを持っていますか??

私は国語の教科書のイメージがとても強いです。私と同様、学校で学んだ人は多いのではないでしょうか。

多くの作品を残した魯迅。でも、はじめから文学の道を志していたわけではありません。
実は学生時代には、意外にも医学の道を学んでいたんです。

今回はそんな魯迅の日本留学時代にフォーカスを当ててご紹介します。
ご観劇の際の予備知識としてご活用いただければと思います!




①父の死、そして医学の道へ


(↑魯迅)

魯迅。

実はこれ本名ではないんです。

本名を周樹人(しゅうじゅじん)といいます。


私達が知っている〈魯迅〉というペンネームを使い始めたのは38歳の時からなんですよ。
知っていましたか??




さて、魯迅(周樹人)は、
1881年、浙江省紹興で産まれます。

(↑浙江省紹興)


幼い頃は、長患いをしていた父・周鳳儀のために、質屋と薬やを往復してはなけなしのお金で薬を買っていた魯迅。


しかし、その努力も虚しく父は死んでしまいます…。


その時の漢方医の処方が不甲斐なかったことから

「父のように誤診された病人の苦しみを救いたい」

と医学の道を志すことに。


この時、夢を後押しをしてくれたのが、母・魯瑞でした。
8円の旅費を作り「お前の好きにしなさい」と送り出してくれたそうです。
いつの時代でも、お母さんは強い味方ですね。


当時、勉強をする余裕のある家の子は、出世や名誉のため官吏採用試験である科挙を受けることが主流だった中国。

魯迅もこの科挙試験に備えていたのですが、
父が亡くなったことから、給費生として江南水師学童に入学、そして改めて路鑛学堂に入学し勉学に励みます。
余談ですが、科挙の試験は『四書五経』の暗記がほとんどだったので、
江南水師学童に入学した魯迅は、
この学校に来てからわたしは初めて世の中に別に物理、数学、地理、歴史、図画、体操などがあることを知った。
(中略)
また飜訳書に依って日本の維新が西洋医学に端を発したことさえも知った。(『吶喊』)
と語っています。

そこで優秀な成績を修めていた魯迅は、
1902年、国費留学生として日本・東京に留学。

1904年には、24歳で仙台医学専門学校に入学します。

日本全国に5つあった医学校の中から仙台を選んだのは、”中国人の一人もいないところに行きたかったから”というのが理由だったのだとか。



②藤野先生との出会い



さて、そして魯迅はこの仙台医学専門学校で、
小説、『藤野先生』のモデルとなった藤野厳九郎氏と出会います。


(↑藤野厳九郎先生)


解剖学などを担当し、毎週魯迅のノートを添削し熱心に指導をした藤野厳九郎先生。


『藤野先生』の中で魯迅は


「私がわが師と仰ぐ人々の中でも、先生は最も私を感激させ、私を鼓舞激励してくださった一人である。」

「先生の人格は、私の眼と心の中では偉大である」



と綴っています。
このことから魯迅にとって藤野先生の存在が大きかったことが伺えますね。



③医学から文学へ…



せっせと医学の勉強に励んでいた魯迅でしたが、
なんと二学年が終わったとき、彼は医学を捨て、仙台を去る決意をします。


そのきっかけとなったのが、細菌学の授業でみた映写でした。

(当時、医学校では時折日露戦争に関する時事的幻灯画を見せていたそうです。)



それは、日露戦争の際、ロシアの軍事探偵を働いた罪により今にも処刑されようとしている中国人と、それを取り囲んでいる大勢の人々の幻灯でした。

そこには、処刑人を好奇心溢れるまなざしで見つめ、ただの見物人に徹する民衆の姿があったそうです。


同胞たちのそんな姿に衝撃を受けた魯迅。




その時のことを魯迅は初めての小説集である吶喊(1923)の自序で以下のように綴っています。

医学は決して重要なものでないと悟った。およそ愚劣な国民は体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである。病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だからわたしどもの第一要件は、彼等の精神を改変するにあるので、しかもいい方に改変するのだ。わたしはその時当然文芸を推した。


”医学で人の身体は救えても、人の精神までは救えぬ。

まず初めに人々の精神を変えなければ!”


とさとった魯迅。

こうして魯迅はメスを筆に持ち替え、医学から文学の道へ進んでいくこととなります。



魯迅が仙台を去る際、時々は手紙で状況を知らせてくれと切望し、
裏に”惜別”と書かれた一枚の写真をくれた藤野厳九郎先生。

先生を失望させてしまうのではと危惧し、結局1枚も手紙を出すことができませんでしたが、
この時受け取った写真を書物机の向かいに飾り、文章を書き続けた魯迅。

藤野先生は彼の心の中に生き続け、文筆活動を励まし沢山の勇気を与えたのではないでしょうか。





余談にはなりますが、この写真のエピソードを由来として描かれた太宰治の『惜別』をみなさんはご存知ですか???

これは仙台医学専門学校の魯迅の姿を、同級生が語るという設定で描かれた小説です。

史実とは異なる部分もあるのですが、今回ご紹介した『藤野先生』と合わせて読んでみると面白いかもしれません。


実は『阿Q外傳』では、魯迅自身も物語に絡んでいきます。どのような関わりがあるのか、是非劇場で確認していただければと思います。
お待ちしております〜〜!!!!!

文・イラスト 池亀瑠真

[参考文献]
Wikipedia魯迅
Wikipedia 藤野厳九郎
Wikipedia 吶喊
阿Q正伝 角川文庫
惜別 青空文庫
Wikipedia 惜別


文学座附属演劇研究所
研修科2019年度第2回発表会『阿Q外傳』は、

8月2日(金)~8月4日(日)まで、文学座アトリエにて上演されます。

予約開始は7月19日(金)19:00~。

お電話 03-3351-7265(11時~18時/日祝除く、5月19日のみ日曜でも18~20時に電話予約可)
もしくはwebにてご予約ください!
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